2017-08

そして彼女はセロニアスを解析した。




☆ 山中千尋がセロニアス・モンクをトリオで弾く。時あたかもモンク生誕百年(あたり...というのもモンクの生年には確か複数説がある)で,その記念すべき(だろう)年にあわせたレコーディングだから一度は聴いてみたくなる。そして聴いた感想は,タイトルのとおりだ。

☆ ここに取り上げられたセロニアス・モンク作品は,確かにセロニアス・モンク作品の「主旋律の音」がする。だがしかし,それはセロニアスの(特に1950年代にリヴァーサイドやプレスティッジに残した)音ではない。山中千尋という別の性能が解析しきった「音」である。それはセロニアス・モンクというとんでもない才能に対する彼女の控え目にして大胆な(だからアルバムタイトルが『モンク・スタディーズ』なのであるが)挑戦だった。

☆ セロニアスが亡くなって直ぐに彼のトリビュート盤が出た(CDで探しているのだが見つからない)。その中にはドナルド・フェイゲンやジョー・ジャクソンのわりと正統的な演奏があり,一方でWas(Not Was)の大胆な解釈の演奏もあった。この受け止め方のレンジの広さがセロニアス・モンクというひとりの「風変わりなジャズ・ミュージシャン」の音楽のレンジの広さであるのだと,当時ぼくは思ったものだ。そして90年代になって輸入CDでリヴァーサイドやプレスティッジ時代のモンクの演奏(50年代の比較的進行の遅い彼のピアノ,特にソロ演奏)を聴いて,改めてこのミュージシャンの音に対する本能というか「音のゆらぎ」に対する感性というか確信のようなものを感じた。

☆ 山中千尋はセロニアスを聴きこんで,このスタディーに挑戦したのは明らかだ。この音はモンクじゃないなどと単純に原理主義的に決めつけるべきではない(笑)。もしこのアルバムの「間」と「リズム」に「違和感」を感じるだけでアルバムを評価するのであれば,50年代にセロニアスの音に出逢って評価できないまま「バップの高僧(Monkという名前じたいに「高僧」という意味がある)」などと言って敬して遠ざけた人達の二の舞を舞っているだけなのだろう。そこに違和感が発生すれば,彼女の目論見は半分,成功している。ただそれに留まるのであれば,セロニアスの壁はまだ彼女には高かったということになる。たぶんそれは実際にライブという場で聴いてみないと答えにならないのかもしれない。

☆ それにしても薄い。歌詩カードがないアルバムが薄いことは納得できない。昔のジャズのLPはそれなりに解説があった筈だ。90年くらいまでの洋盤ロックだってそうだ。いくらネットで便利になったからと言って,そのアルバムが出た時点で解説を書く人間を養成せずにポピュラー音楽が生き残れると思うのか?

☆ DVDは凄かった。これを見ながらぼくが思ったことは,山中千尋のイメージするセロニアス・モンクは「うねり」なのではないか,ということ。どの曲からも「うねり=グルーヴ」が伝わってくる。それは50年代のモンクのグルーヴとは当然異なるが,そこには確かに通底するものがある。



☆ 上に示したアルバムはそんな彼女が選んだセロニアス・モンク入門編。『モンク・スタディーズ』では取り上げられそうもない「ストレート・ノー・チェイサー」で始まり,同じ理由から選ばれていると思われる「ラウンド・ミッドナイト」(ファイブ・スポットのライブ!)や「ブリリアント・コーナーズ」「ブルー・モンク」なんて曲が並んでいる。ふむふむ。
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「音楽っていいですね。そこには常に理屈や論理を超えた物語があり、その物語と結びついた優しい個人的背景がある。この世界に音楽というものがなかったら、僕らの人生は(つまり、いつ白骨になってもおかしくない僕らの人生)もっともっと耐え難いものになっていたはずだ。」(引用元:村上春樹「ポケット・トランジスタ」(『村上ラジオ』2001年6月8日所収))

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