2017-05

それは無意識の覚悟だったのか?



親愛なる者へ親愛なる者へ
2,916円
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☆ 中島みゆきの『親愛なる者へ』は,1979年3月21日に発売された。みゆきにとって5枚目のアルバムであり,初のNo.1獲得アルバムでもある(前年の秋から冬にかけてシングル「わかれうた」が彼女にとって初めてのNo.1シングルとなった)。ニュー・ミュージック・ムーブメントにいちばん勢いのある時期であり,1位にはほとんど障害もなかったが,おそらくこのアルバムが結果として今に続く中島の音楽世界の基盤になったのではないかとぼくは思っている。

☆ アルバムとしての『親愛なる者へ』は機会を改めて書きたいと思うが,上に書いた考えの根拠がアルバムのラストに置かれたタイトル曲(正確には「断崖-親愛なる者へ-」)にあると確信しているからだ。

うたまっぷ 中島みゆき 断崖-親愛なる者へ-
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=57692

☆ 「アザミ嬢のララバイ」から「わかれうた」を経てこの曲に繋がる(そして「悪女」へと続いていく)中島みゆきの詩の世界には,明らかに「夜のお姐さん」の雰囲気が濃厚にある(彼女たちの化粧の噎(む)せかえるような「あれ」だ)。この濃厚さは化粧品会社が自然に若い女性全体に拡散させてしまったので,今では戯画的な部分を除いてそんなものは残っていない。だからこの世界は70年代末の濃厚さを独特のものとして感じるしかなく,いずれそれは古典(的な文化・風俗)になっていくものであろう。

☆ その濃厚さを残していくことが歌姫たる中島みゆきの使命となったと書けば書き過ぎの誹(そし)りは免れないだろう。しかしどう考えても酌婦・娼婦の唄でしかない「アザミ嬢」が示した覚悟はこの曲でこう語られている。

> だけど死ぬまで春の服を着るよ
> そうさ寒いとみんな逃げてしまうものね (そう)みんなそうさ

☆ そして「いま崩れゆく崖の上」に立つ「彼女」は,もはや自分のことを「そ(う)して あたしは いつも 夜咲く アザミ」と自嘲することすらない。「(そう)みんなそうさ」と言い切る覚悟があるからだ。みゆきの詩には明らかに弱者たる自分がある。この歌詩をみて「いじめ」だの「ハラスメント」だのという問題が先取りされているなどとしたり顔で語るより,むしろそうした問題が本質的な人間の性(さが)に起因するものではないかと疑わせる事実があるのだ。

☆ 誰が見てもインチキでしかない「春の服」(春が意味=隠喩するモノも,別にある)を着る覚悟を示すことで,中島みゆきは「この世界」に別れを告げたのだ。それは崩れゆく崖の上に立ちながら

> 流し目を使う 昔惚れてくれた奴に

そして思わず呟くのだ。

> あぁ なさけないね

☆ これは「引かれ者の小唄」ではない。覚悟を決めた人間の照れ笑いなのだ。見ている者はいっしょにその苦笑いに付き合ってあげなければならないだろう。

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「音楽っていいですね。そこには常に理屈や論理を超えた物語があり、その物語と結びついた優しい個人的背景がある。この世界に音楽というものがなかったら、僕らの人生は(つまり、いつ白骨になってもおかしくない僕らの人生)もっともっと耐え難いものになっていたはずだ。」(引用元:村上春樹「ポケット・トランジスタ」(『村上ラジオ』2001年6月8日所収))

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