2017-05

音楽の神様は,どこかにいる。


蜜蜂と遠雷蜜蜂と遠雷
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☆ 自裁した中村とうようは日頃からクラシック音楽のことを「黴の生えた音楽」と貶していた。中村の視点にはポピュラー音楽それ自体というより,その母胎にあるであろう民族音楽への憧憬にも似た共感があったからだ。その視点の裏側には同時に1950~60年代的な帝国主義史観が反映されていることに疑う余地もない。少し前に亡くなったフィデル・カストロの存在もまた,中村にとって小さなものではなかったはずだ。

☆ その視点が批判的にとらえたものからは,クラシック音楽やそれを権威主義的に語る一種のスノビズムには,19世紀的帝国主義の残滓と言って良い植民地主義や人種・民族差別など20世紀の諸問題のうち共産主義を除く大半がそこに属していたという主張がある気もする(もっともその共産主義ですら,東西冷戦の構図(パースペクティヴ)の中に取り込まれていったのだから,20世紀のほぼ全部がここに属していたと言い切ってもあながち外れではないと思う)。

☆ ただ中村の視点もまた偏りがないとは言わない。彼にとって幸運だったのは彼がボブ・ディランのノーベル文学賞受賞の知らせを少なくともこの世では知らなかったということかもしれない(同じことは中山康樹にも,たぶん言えるだろう)。もっともこんなことを言ったら中川五郎から「そうじゃない」と言われそうな気もするが。

☆ ある人に話したことがあるが,今年はさまざまな本を濫読していった。もう少しで300冊になるから本に淫したに等しい。その中で今年の後半に読んだ2冊の本には,なぜか音楽の神様がいるような気がした。音楽の神様が何処に居て誰にどうしたのかは,本を読んでもらうしかない。恩田の本からはクラシック音楽のコンクールとフィギュアスケートの大会が相似形のように感じられたし,平野の本からは登場人物を動かしたチェス盤みたいなもの(ハリーポッターの最初の映画で出てきたやつ)は,音楽の神様の掌の上にあるような気がした。そして彼らの本からは中村の主張を優しく撥ねつけているような気もしてくるのである。




☆ そのことはぼくのポピュラー音楽に対する視点にはたぶん何の影響も与えないであろう(そう願いたい)。だがしかし,たとえぼくがその視点にしがみつき続けたとしても,次のことだけは認めざるを得ない。「この世に神様がいるとは,ぼくはあまり信じていないのだが,音楽の神様だけは,どこかにいそうな気がする。」







☆ 『ショパンコンクール』(青柳いづみこ 2016年9月16日)を読むと『蜜蜂と遠雷』(恩田陸 2016年9月23日)を読み解く符号がある。具体的なところも含めて,これは興味深かった。
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「音楽っていいですね。そこには常に理屈や論理を超えた物語があり、その物語と結びついた優しい個人的背景がある。この世界に音楽というものがなかったら、僕らの人生は(つまり、いつ白骨になってもおかしくない僕らの人生)もっともっと耐え難いものになっていたはずだ。」(引用元:村上春樹「ポケット・トランジスタ」(『村上ラジオ』2001年6月8日所収))

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